松代の空

先週のこと。長野の松代は牧島にある母方の田舎に帰省中、祖父が他界した。
92歳という年齢もあったし、ひと月前に余命3ヶ月の末期ガン宣告を受けていたので、盆の帰省も最後の挨拶になるのではないかと思っていたが、まさか自分(と自分の妻)が祖父の死を看取る役目を与えられることになるとは思ってもみなかった。
牧島に着いたのは祖父が亡くなる2日前、8月15日だった。すでに寝たきりのような状態だったが、つい前日までは介助付きで用を足しにいけるくらいの体力があったという。枕元にいくと、孫の自分のこともしっかり判別してくれた。手を握り、ひたすらに来てくれてありがとう、ありがとう、と感謝を口にする祖父。祖父の手を握るのはそれこそ三十年ぶりくらいだろうか。力こそ殆ど入らないものの、指の骨や爪はいまだ自分の倍以上はあるほどに太く、戦争を生き抜いた人の生命力を見る気がした。
翌日から祖父の体調は転がり落ちるように悪化する。食べ物は受け付けず、僅かな水と氷だけしか口にできないようになった。混濁する意識の中で、懸命に痛みと闘う。緩和ケアの医師が診察に来てくれた。余命は数日、癌の所為で腹膜が破れているため、後は麻薬で痛みを和らげるしかないということらしかった。

送り盆の翌日、最後の日。午前は祖父の寝室に移設した介護用ベッドに皆で祖父を持ち上げて移し、自分は隣室の床の間で仕事をしながら様子を見る。時折渇きや痛みを訴えるのでそれに対応しながらも、自分と妻と祖父、3人で穏やかに過ごす。祖父の寝室は床の間と繋がっていて、夏でも適度な風が吹いていつも涼しかった。祖父は健康な頃は、窓外に広がる畑の向こうに2年前までは通っていた屋代線の音を聞きながら午睡をとるのを好しとしていた。
寝たままだと痛みや気管の詰まりで具合が悪いようだったので、機械式のベッドで半身を起こしてやる。牧島の景色が祖父にも見えるようカーテンをあける。
因みにこの窓外の景色は、少年期の自分の原風景のようなものでもあった。夏休みも半ばを過ぎて、帰省中の長野から生活の地である横浜に戻るころ、今はない旧家の居間から覗く景色の穏やかさが今も懐かしく感じられる。青青とした牧島の空と、緑の畑の間を縫うようにして走る、古びた電車。踏切の音。今は線路も撤去され、放置される畑も増えた。
午後から容体は急変した。腹部の痛みに加え、頭痛、息もむせ、氷すらも喉を通らなくなる。ほんの一時間前に母が入れた痛み止めの座薬も効かないほどの、激痛。赤ん坊のように丸くなり、「いしゃい(いたい)、いしゃい」と繰り返す。
途中、「はやく、はやく」と何事かを訴える。何を急いているのだろうか、祖父が要求しているのは水でも医者でも、薬でもないらしい。
再び半身を起こしてなんとか気管と呼吸を整えてやる。手や胸をさすっていると、この二日間殆ど閉じていた目を大きく見開き、肩で息をするように大きな呼吸をするようになる。意外にも早くその時が来たのだと悟る。母と父、妻と自分の4人でベッドを囲み、祖父に呼びかける。しかし、もはや喋ることもままならない。手足が徐々に色を失い、冷たくなってゆく。
祖父が愛した牧島の空を見せるため、窓をいっぱいにあける。その空は、青春の頃、従軍の束の間の休息に仰ぎ見た南方の空と繋がっているのだろうか。
虫の知らせか、ニュージーランドに移住し、帰国途中だった叔母から電話が入る。ああ、さっき祖父は何千キロと離れた所にいる叔母に電話を急かしていたのか、と思う。叔母と甥の声を聞くと、気のせいかほんの少しだけ祖父の体が温かくなった。
徐々に息の間隔が大きくなり、瞳孔が開く。残された僅かの呼吸を、最後のひと息まで、生命を戦っているように。
「おじいちゃん、ありがとう」
「今までありがとう」
「よく頑張ったね」
「おじいちゃん、ありがとう」
「みんな大丈夫だからね、ちゃんとやっていくからね、安心していいからね」
最後に母が言うと、祖父の目尻に一粒の涙が滲んだ。
そして祖父の体から、生命の気配が長い余韻を残すように消えていった。

時間は17時5分。人事不省のような状態になってからおそらく1時間もなかったのだろう。
しばしの後、庭に出て、松代の空高くにいるかもしれない祖父に少しの間話しかけてみた。
癌の悪化で一時入院する直前まで、人の手を煩わすことを好まず、高齢ながら自炊や掃除など一人でこなした祖父。自宅で母が介護した期間も短く、最後まで子供達や身の回りのことを心配して、自宅で往生したその逝き様は祖父の人生を表していたような気がする。
勿論そこには地域の方々の見守りや、献身的に対応していただいた訪問看護の方々や医師の尽力と、そして横浜から毎月足を運び、万事好く尽くしていた母の支えがあってのことでもある。
きっと生命は繋がっている。死ぬこととも、生きることとも。そして自分は最後に祖父から生命を授かった。だから、全然と言うのは嘘になるが、思ったより寂しくはない。
痛みを訴えると同時に、死の際まで祖父は「ありがとう」「本当によくしてもらった」「ありがとう」と口にしていた。自分は自分で、92年の大きな人生の最期を看取らせてもらえた祖父への感謝を、生涯忘れることができないだろう。

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